人体三分節と病気 その1

昔、人智学的人体観・中国医学的人体観と科学哲学の観点から心身問題についていろいろ考えていたことがあった。一応はある程度の決着が自分の中でついたので、それっきりだったが、最近精神科系の疾患の方の治療をする上で、もうちょっと深めた方がいいだろうと、本を読んでは考え込んでいる。

今日読み終えたのは安藤治先生という精神科のお医者さんがお書きになった『心理療法としての仏教』だ。副題に「禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ」と書かれている。安藤先生はトランスパース心理学関係の著作もあるようで、精神科の心理療法と、宗教の瞑想技法の心理療法的側面を融合することを、治療のテーマにしておられるようだ。
『心理療法としての仏教』はいくつかの心理療法の仮説的意識構造論と、それへの治療技法と、仏教のそれとを比較しながらあれこれ論じておられるのであるが、何が本質的なものなのかなかなか見えてこない。先生のが別に書かれた『瞑想の精神医学』の方がまとまっているようなので、こちらをさきほどアマゾンに注文した。

心身問題の本質は、人間の構成要素を心と身(体)の二元論的観点から見るのではなく、心と体と認識主体の三元論に分類し、三つの関係性を見ていくことだ。多くの西洋医学は体の観点で考え、一部には心身二元論で考える。それに対して中国医学や人智学的な医学(アントロポゾフィー医学)は三元論に立っている。三つの構成要素の関係がどのようになっていて、いつどこにどのようにアプローチすべきなのかを考えるのが三元論に立つ医学の基本的な考え方だ。ほとんどの病気は体だけをみて対処できるのであるが、ある種の慢性病や精神疾患などは、三分節で考える必要がある。何回かにわたって三分節化で考えた人体と病気を、中国医学・アントロポゾフィー医学・仏教思想を交えながら考えていくことにする。

三分節化された人間の構造のそれぞれの分類には、いろいろな区切り方がある。たとえば体は物質的な体と霊的な体に分かれると中国医学や人智学などは考える。インドのある種の思想なんかもそうだ。心は同じ宗教でも宗派によって分類方法が違うというのもある。インド仏教は長い歴史の中で心に対していろいろな区分法を考えた。そういった分類法の細かな相違はひとつのものをどういうふうに分割するかの問題なので、重要なことではあるが本質的な問題ではない。
 
一般の方でも心と体を別の物としてわけるのはイメージしやすいと思うが心と認識主体の区別は説明が必要だろう。何かを感じたり考えたりしている自分が自己、意識の中心と考える方が多いのではないかと思う。これは日常的には認識主体と心が一体化して活動して意識活動をしているからで、宗教的には両者は別物だ。

 
我を忘れて何かに対して共感したり反発したりする経験はだれにでもあると思うが、共感したり反発したりしているときに、同時進行でその共感や反発を意識化(思考の対象化)している経験もほとんどの方にあるだろう。また、ぼーっとしているときに、思い出がわき上がったり、あれこれ考えてしまう。思い出や考えている自分を同時進行で意識化(思考の対象化)した経験も多くの人にあると思う。そういうときに、意識化している主体を認識主体とし、認識対象となっている意識を心と宗教的には定義する。通常は、認識の主体が心を認識の対象化できるのはちょっとのあいだだけで、すぐに心の動きに認識の主体がひきずられてあれこれ受動的に考えてしまう。こういうのを仏教では無明という。無明とは悟りの智恵が働いていないことをさす。
 
仏教では心や肉体、それに現象世界ので起きることを無常なるものと考える。無常なるものをダルマ(法)ともいう。認識主体が無常なるダルマに引きずられている(無明の状態である)ので、修行の基本は認識主体をダルマから意識的に分離する訓練する。これが瞑想だ。
 
般若心経に五蘊皆空という言葉が出てくる。五蘊とは色受想行識で、色は肉体あるいは感覚器官・物質的なものすべてを指し、残りの四つは心のはたらきを四分割したものだ。五蘊はダルマの分類法のひとつなのである。五蘊皆空とは心も体も物質的な世界も無常なるものなので空だという意味になる。ダルマを空と悟る認識主体をプラジュニャー(般若)といい、般若心経は般若の智恵で五蘊皆空と瞑想することを説く大乗仏教のお経のひとつというわけだ。

ちなみにこのときの認識主体をインドの主流派の思想ではアートマンと呼んだ。仏教でも古くはアートマンという用語を使ったが、単に自己、認識主体を表す言葉として使っただけで、他のインド哲学の流派のように常住的な実体であると考えていたわけではない。この点が仏教の革新的なところだ。アートマンは常住的な実体であるという考えを否定していたのは仏教のどの流派にも共通の了解事項であるが、お釈迦様がアートマンの実体そのものの存在を否定したかどうかには異論がある。

仏教ではアートマンの常住性を否定しただけ、つまり無常としてのアートマンの実体性(存在そのもの)をお釈迦様は否定したわけではないという考えの人たちと、実体性そのものを否定したと考えの人たちがいる。昔も今も後者の説が多数派で、前者の説は少数派だ。アートマンが実体として存在するか否かはとても重要な問題ではあるが、人間の三分節化と病気を考えるときの本質的な問題ではない。ということで、以下の論考ではとりあえず考えない。

なにはともあれ、人間の構成要素を肉体・心・認識主体という三分節で考えるのが重要である。

次回に続きます。


     (2013年06月24日:
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