前回、日本人の今年の課題は、「家族に帰れ」「共同体に帰れ」ではないか、という話を書いたが、これには克服しなければならない大きな課題がある。それは日本人の古層にある闇の意識だ。
日本の、というより多くの先進国が個人主義的になったのは、近代以前では、形態の違いはあっても基本的に共同体が個人の自由や生きようとする本能までをも奪う側面があり、それから自由になろうという衝動があったからだ。
この点については洋の東西を問わず、文学・芸術のテーマでもあった。たとえば自由と家制度の葛藤をテーマにした文学作品はたくさん作られてきた。夏目漱石は、明治時代に恋愛と家族制度の葛藤をテーマにして小説を書いている。大衆文学でも横溝正史のように、家族制度や地域共同体の闇から起きる犯罪をテーマにした小説もある。私の好きな寺山修司も、母親や故郷と自由をテーマにした短歌・小説・映画をたくさん作った。
故郷喪失者(Heimatloser)というのは、ドイツ・ロマン派の文学における大きなテーマのひとつだったと、恩師の高橋巌先生からお聞きしたことがなんどもある。
こういう家や共同体の闇の面が、昨年の地震でも起きた。
いつだったか、ネットで福島在住だった女性の日記を読んだことがある。彼女は何年か前に都会から、福島の田舎へ嫁いだんだという。よその者ということで、ずいぶん苦労したようだが、なんとか溶け込もうと努力されていたようだ。子供も二人出来、なんとか落ち着いた頃、地震が起きた。原発事故直後から子供たちが体調を崩したそうだ。被爆の影響を心配して、家や地元で取れた農産物はできるだけ避け、外出も控えてさせていたそうだ。被爆が心配なので線量を計ろうとすると「なんでそんなことをするのか」と家族や近所の人から非難の目で見られたという。さらには家や地元で取れたものを子供たちに食べさそうとする。彼女はできるだけ抵抗したのだが、それに非難の目を向けられた。結局、子供の体調がよくならないので、夫を説得して関西へ非難してこられたのだが、そのとき家族からかけられた言葉が「裏切り者」だったという。
知人の宗教家からこんな話も聞いたことがある。東京でアパレル関係の店をしていた友人が、原発事故直後に東京を離れたそうだ。数ヶ月経って東京の状況が落ち着いたので、戻って仕事を再開した。すると、取引先から「逃げた裏切り者とは商売しない」と、いわれたそうだ。
いずれの例も、共同体の闇だ。大東亜戦争のとき、都会の大人たちや自治体は、子供を農村部に疎開させた。自分たちはどうなっても、日本の未来を担う子供たちを死なせてはならないという意識があったからだ。今回の事故をめぐる自治体や大人たちの対応をみていると、大東亜戦争時の大人たちよりも、ずっと道徳性が低下しているのがはっきり見えた。こういう共同体の闇と戦っているのが、子供たちの親、特に母親だ。
「家族に帰れ」「共同体に帰れ」といっても、この共同体の闇を乗り越える意識を私たちの中に作らない限り、家族や共同体に帰ることも守ることもできないであろう。
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鹿島先生がここで提起されている問題は、重い。
今、日本人が直面している問題群のカナメだと思います。
池澤夏樹も同じことを指摘しています。
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20120105dde012040015000c.html 「絆は『縛り』にもなるからね」
絆を重んじるがあまり、個人の大切なものをないがしろにしなかったか。
「稲作に由来する集団主義。隣組的などうかつ、異物排除……。東日本大震災の後、東北だけでなく、日本全体が『向こう三軒両隣主義』にさらされた。」
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よくいわれることだが、日本人は「個」を蔑ろにしてきた。
個人としての顔と名前を捨て、集団を代表するときに、ひとは悪魔にもなる。一個人として付き合えば「いいひと」なのに、会社を代表したり、官僚組織の代表として話したり、するととたんに鉄面皮にひとはなる。ネットに匿名で投稿したりすると、まるで自分が日本国民を代表しているかのように、ひとを非国民呼ばわりしたり出来る。
顔を無くし、”集合的なもの”に同一化したひとはコワイ。
キリスト教社会の教育では「人格論」というのがとても大切なウエートを占めている。唯一で一回切り、掛け替えのない「個人」。神の写し絵としてのペルソナ=人格。この掛け替えのない「個」を通してしか、神と交わる事はできない。ヨーロッパ社会で個人としての生き方が尊ばれる所以だと思う。
仏教ではそこをすっ飛ばして一足飛びに「無我」「一切空」などと言ってしまってきた。しかし実は、この「無我」を悟るには徹底的に「我」と向き合い瞑想しなければならないものなのだ。そこを飛ばして無我と言おうが空と言おうが、それは観念の生み出した幻に過ぎない。パラドックスだが「無我」とは今ここにある一回きりの掛け替えのない「我」を徹底的に見つめるところにしかない。刹那・即・永遠。永遠に至る門はこの一刹那以外にない。
”いまここ”で”生きて””働いている”「個」を蔑ろにして、如何なる真理に達することもない。仏教教団はそこを強調してこなかった。それがために、却ってひとは惑っている。
日本人はもう一度、集団との同一化から目覚め、「個」を通して、人と、社会と、自然と、宇宙と、神と、真理と、永遠と、交感=共感=天籟=交響する道を探らねばならない。んじゃないかな~。(^o^)v ん~長くなった!
「共同体の闇とは、突き詰めれば無知に他ならない。そこを自覚しない限り地方の再生などあり得ないだろう。同時にまた、自分たちの認識や思想信条に合わないことが、共同体の闇なのではない。自由にやって来て、ほんの数年で去る者たちには、残念ながら無知で失礼な者たちも少なくない。」
↑は私が昨日ツイッターに投稿したコメントです。
鹿島先生の今回のこの記事は「田舎(私は愛着を込めてこう書きます)」のこれからを考えるには、良いとっかかり記事だと思います。
私は後1年で故郷に居た年月よりも佐渡での暮らしの方が長くなります。佐渡では17年間、現在の集落に住み続けていますし、家も持ち家となりました。いろいろな出会いと自他の関わりに於ける試行錯誤を経て、現在の(共同体の中では、やや異質ではあろう)自分の立ち位置というものを作らせて(認めて)頂きました。
何事も議論や正論や双方の想いだけでは現実は決して進展せず、ある程度の...長い時間をかけてゆっくりと熟成する状況(もちろんその間、真剣に生きることを前提として)こそが、ふり返った時に進展の力となっていたことに気づくことが多いものだと思います。
急には分かってもらえません。人間の愛や正義は思いやりは、決して一つの形だけではありません。自分の知らない想像だにしなかったような、多様な形があるものです。最初はそれが現象的にぶつかります。
しかし焦らず腐らず長い時間をかけて自分に誠実に生きていれば、必ず理解される日も訪れます。
「裏切り者」と言われて、そこでこれまでの関係性が終わるのではありません。むしろその逆だと私は思います。「これまでの関係性」こそが幻想でしかなかったということではないでしょうか。
「裏切り者」と、やっと強いストレートな感情を自分に対して向けてくれたわけです。普通そんな強い感情表現は家族に対しても知人に対しても簡単にできることではありません。普通は押し黙って陰でコソコソ言い合うのが日本人なのです。
個人の権利や自分の正しさを分からない連中は無知だバカだ、と自分の側からだけ思っている限りは、愛や正義や思いやりの多様性は、死ぬまで理解できないのではないでしょうか。
今回の福島のケースの場合はむしろ特殊で、ここには緊急避難の案件が絡んでいますので、共同体の闇を考察する上では、一見分かりやすい状況のようで、実は緊急避難という要素が、問題をより複雑にしています。
緊急避難の問題は分けて考えるべきだと思います。
いずれにせよ、関係性が終わったのではなく、「やっと始まったのだ」と認識する方が、未来に繋がるのではないでしょうか。