瞑想の核心部分の構造4

前回では止観の行の意味を考えてみた。仏教では止・観、どちらも流派によっていろんなテクニックが残されている。

少し前に取り上げた井筒俊彦先生の「神秘哲学」の序文に以下のような文がある。在家の禅者であったお父上から習った内観法なのだが、これが禅的な、とてもシンプルな止観法なので、ちょっと見てみよう。

私はこの父から彼独特の内観法を教わった。というよりもむしろ無理やりに教え込まれた。彼の方法というのは、必ず墨痕淋漓たる『心』の一字を書き与え、一定の時間を限って来る日も来る日もそれを凝視させ、やがて機熟すと見るやその紙片を破棄し、「紙上に書かれた文字ではなく汝の心中に書かれた文字を視よ、二十四時の間一瞬も休みなくそれを凝視して念慮の散乱を一点に集定せよ」と命じ、さらに時を経て、「汝の心中に書かれた文字をもてあますところなく掃蕩し尽くせ。『心』の文字ではなく文字の背後に汝自身の生ける『心』を見よ」と命じ、なお一歩進めると、「汝の心をも見るな、内外一切の錯乱を去ってひたすら無・心に帰没せよ。無に入って無をも見るな」といった具合であった。しかしながら私は同時に、かかる内観の道上の進歩は直ちに日常的生活の分野に内的自由の撥露すべきものであって、修道の途次にある間はもとより、たとい道の道奥を窮めた後といえどもこれに知的詮索を加えることは恐るべき邪解であると教えられた。

これを整理してみると、次のようになる。

1)「心」という字を凝視
2)「心」という字をイメージし、それを長時間視る
3)「心」という字のイメージは捨て去り、イメージの背後にある生きた「心」を見る(表象ではなく概念=イデアを視ようとする)
4)上記の意識も一切捨て去り、無・心に帰没する。無に入って無をも見てはいけない。

認識論的に解釈すると次のようになるように思う

1の「心」という字を凝視するということは、知覚対象と知覚像とdharminとを
一体化させる。最初のうちは、知覚対象や知覚像とは別に、雑念が湧いてくるが、行を繰り返すうちに消えていく。この行は、知覚対象と知覚像に対してdharminが能動的になること、それを意識化することにある。

2は「心」という字のイメージ、つまり表象像を能動的に作ることになる。知覚対象から離れた表象像を意識的に作ることによって、無意識的に表れてくる表象像との違いを意識化する効果がある。ちなみに表象像というのは、人智学的にはエーテル像である。

3のイメージの背後にある生きた「心」とは、「心」という像・知覚対象のイデア、概念を指す。つまりここでは表象像と概念=イデアとは別物であることを意識化する。表象像は個別的なものであるのに対し、概念は形而上的実在であることを意識化する。

4はダルミンから1~3までのダルマを切り離す瞑想である。概念=イデアが形而上的実在であっても、dharminとは別のものであり、仏教的には空なるものである。

こんなふうにとらえるといいかと思うが、少し前に読みなおしてみると、般若心経の五蘊皆空という瞑想をふまえたものだなと感じた。

五蘊とは仏教では色・受・想・行・識を指す。色は物質的対象、受は知覚像、想は表象像、行は形相因たるイデア、識は世俗的な思考作業ととらえておくと良い。

以上のことから、井筒先生が、在家の禅者であったお父上から習ったという内観法は、禅的な止観法にもとづいた、シンプルな内観法であったと思われる。



     (2011年11月05日:
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コメント(1)

そうですね。そしてその先が、空無辺、非想非非想、想受滅と言う行程を経て、解脱、悟りに至るのですね。だから「空」を認識すれば、その先に二つの行程がある。

最後には「無」となるが、これは本当は、「すべてのものを普遍意識の中で感得する」状態だから、実際には「有限的な存在が無となる」意味であり、「無限の中で無限に存在している」状態と理解する必要があり、西洋的には「神は豊穣」であると語られる。禅は誤解されやすいですね。東西の融合が間違いを防ぐかも?

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