瞑想の核心部分の構造2

前回にちょっとまとまらなかったので、瞑想の基本構造について少しまとめてみよう。

西洋人は一般的に「AはBである」という文法でものごとを考え始めるが、インド人はちょっと変わっていて「AにおいてBがある」という文法で物事を考え始める。インドのサンスクリット語では、Aをdharmin、Bをdharmaという用語をあてはめる。昔の中国で仏典が漢訳されたときdharminに有法、Bにdharma という用語があてはめられた。サンスクリット語で、有法(dharmin)は保有者、法(dharma)は保有されるものという意味だ。西洋哲学のイデア論にちょっと似ていて、有法がイデア、法がイデアの属性に相当する。

目の前にコップがあるとして、私たちが目にしているは「イデアの属性」=法で、法の本質に有法=イデアが存在すると古代ギリシャ人は考えた。明治時代にギリシャ哲学が翻訳されたときに、古代ギリシャ語でイデアの属性にあたるヒュレーという単語に質量、イデアにあたるエイドスという単語に形相という訳語をあたはめた(これはアリストテレスの定義だが)。質量・形相どちらの訳語も、おそらくは漢訳仏典の援用だろう。目が知覚しているのが質量で、それをコップたらしめているイデアが形相だ。

インド人が「AにおいてBがある」という、日本人にとって奇妙な考えをするのは、サンスクリットの文法構造と、インドの思想のほとんどが瞑想について語ったことに由来していると思われる。瞑想について語ることが、なぜ「AにおいてBがある」という発想につながるかというと、瞑想していると、ものもろの意識が現れてくるが、それを観察している意識も体験できる。どちらも意識現象なんだけれども、それは「観察する意識内において、もろもろの意識が現れてくる」という感じだ。 観察する意識がdharmin、観察されるものがdharmaだ。

仏教ではdharmaは無常なるもので、空なるものと考えた。般若心経に出てくる諸法無我だ。インドの主流哲学思想と仏教では観察する意識に対する定義がちょっと違っていて、ややこしい。インドの主流哲学ではatoman(我) という人間の根源的で実体的な叡智的意識だととらえた。この我を、宇宙に満ちている神的意識Brahman(梵)と合一化する、梵我一如が修行の目的と考えた。それに対して仏教は観察する意志が叡智的意識であることを認めるけれども、常住たる意識ではないととらえた。つまりatomanに否定を表す接頭辞anがついてanatoman(無我)だ。

仏教で有名な一切皆空・諸法無我という考えは、法も有法も常住するものではない空であり、観察する意識の対象たる法は無我であるということを表している。

法をどのように分類するか?とか、常住はしないけれども実在するのか否とか、それを証明するにはどういう方法を取ればいいかなどといった主張の違いによって宗派ができた(まあ、他にもいろんな煩瑣な事情はある)。

ここで瞑想の基本構造なんだけれども、通常のわれわれの意識においては、有法が法によって規定されて、それが有法だと思っている。これが叡智が曇っている意識、無明なわけだ。無明から脱するには一切皆空・諸法無我と瞑想して法と有法を分離させる。

こういった根本的なことが分かれば、種々の仏教思想やインドの伝統思想の思想構造が整理できるように思う。私は大学で仏教を専門的に学んだんだけど、瞑想の実存体験と仏教思想を関連づけて学んだことはほとんどなかったので、理解できていなかったように思う・・・というよりも、ほとんどの教師が分かっていなかったんだと思う。瞑想なんてしらない教師がほとんどだから。チベット仏教僧なんかは瞑想の実践にもとづいて論書を書いているので、分かりやすい。ダライ・ラマ猊下の入門書は瞑想にもとづいた論理展開をなさっておられるので、分かりやすいからねぇ。チベット仏教を専攻すればよかったかな?

次回は法と有法を分離する瞑想の基本構造について考えてみよう。



     (2011年10月04日:
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コメント(4)

やっぱり、少し引っかかるなあ?

仏教で有名な一切皆空・諸法無我という考えは、法も有法も常住するものではない空であり、観察する意識の対象たる法は無我であるということを表している・・・・

1)「一切皆空」と、「一切皆無」とした場合の違いがあると思いますか?なぜ無としなかったのか?なぜなら、釈迦は、後段の悟りの第一段階らしき説明で、「空無辺、識無辺」ともっと別の解釈をすべきようなことを言っているので、気になるのですが?

2)観察する意識の対象たる法は無我である・・・ということの解釈ですが、法≠我ということですか?釈迦の無我の説明には、「・・・には我がない」、「法の中には我はない」、とあるように響くのですが。

つまり論理が成り立たない。法イコール無我、は論理が成立しない。「法は、我が無い」、と言うのは文法的にも論理的にもおかしい。

実はこれは私が、ずっと疑問に思ってきたことです。どう思いますか?

失礼。2)は読み直すと、正確には下記のようですね。

耳は無我である。
鼻は無我である。
舌は無我である。
身は無我である。
意は無我である。
すべて無我なるものは、…こはわが所有にあ
らず、こは我にあらず、こは本体にあらず…と

つまり、「五蘊は我が所有にあらず、我にあらず、本体ににあらず」ということですね。つまり釈迦は「我は無い」などと一切言っていない。仏教徒ではないし、自学自習の身ですので自身はありませんが、「我」はブラフマン(普遍意識)が分化することでアートマンの状態(個我)として現れ、ブラフマンとの一体状になるまでは、「我」としての個別意識はある。普遍意識と一体状(悟り)になった時、一滴の水が大海と混ざるように、個我は普遍意識と混合される、と解釈すると、すべてに矛盾がなくなります。禅が好む表現をすれば、「我はあるでもない、無いでもない」となるが、アートマンとブラフマンのこの関係が分かれば、理解できる。

つまり、究極的には「我」は無いが、アートマンとして、個我として分化した状態では、「我」はあり、それが一人一人の人間の中に反映している魂である。

コメントありがとうございます。
基本的に仏教の本質を知るにはサンスクリット語やパーリー語、
あるいはチベット語の文献を読みほどかないと不可能という現実があるのですが、日本仏教の影響を受けて読んでしまう傾向ががくしゃにもあるので、難しい問題です(インド仏教・チベット仏教の学者のあいだでは、この20~30年劇的に改善はしましたが)。

1)「一切皆空」と「一切皆無」は存在論的の観点から見ると全く違います。認識主体の対象が、前者にはあるにしても後者にはなくなるからです。本来の仏教では存在論的無=現象世界の現実性の非存在を主張していません。

2)法は現象世界、無情なる世界のことを言いますので、法は我を内包します。二つ目のコメントはちょっと違います。仏教ではアートマンとブラフマンの関係性を伝統宗教とは違ったとらえ方をしているのが特徴です.

仏教ではアートマンとブラフマンの関係を考えないことにしたというのが一つの特徴です(密教になるとほとんど同じ解釈をするようになったが)。アートマンの解釈にもいろいろありますが、仏教の本来の考え方は、サーンキャ・ヨーガ思想のプルシャ論とかなり似ています。


分からないなりにおもしろいですねえ。私は仏教の基礎を勉強していないので、非常に参考になります。

一切皆空には認識主体の対象がある・・・ある意味で空は空としての存在がある?・・・がそれ(空)は現象世界ではない。

一切皆無にはそれがない・・・・無は有を、有は無を前提としているので、無自体は単独で認識も存在もし得ない・・・それが現象世界のことである。

法は現象世界・・・・これはプルシャの展開(あるいはプルシャ自体)と考えればよいのですか? 法自体は属性ですか?

失礼、勉強中です。

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